量子コンピューティング入門
学習目標
このモジュールを終えると、以下についての理解が深まります。
- 量子コンピューティングのビジネスケース
- 量子コンピューティングにおけるマイルストーンと革新的な進歩の歩み
複雑な問題への新しいアプローチ
量子コンピューターはかつて大型の実験装置でしたが、現在ではクラウドベースの商用コンピューティングリソースとして利用可能となり、古典的なコンピューターでは厳密にシミュレートできない計算を実行できるようになっています。企業は量子コンピューティングが自社の業界に与える影響についての調査をますます進めています。このトレーニングでは、量子コンピューティングとそのビジネスへの潜在的な価値をご紹介します。また、量子コンピューティングの学習を始める際に生じるさまざまな疑問に答えられるよう、必要な知識を身につけていただけます。IBM Quantum® では、組織内での役割に関わらず、量子コンピューティングの学習 を始めるための豊富なリソースをご用意しています。
量子コンピューティングはどのような問題を解決できるか?
量子コンピューティングは量子力学の法則を活用して、複雑な数学的問題を解決します。科学者やエンジニアが困難な問題に直面するとき、通常は数千のCPU(中央処理装置)とGPU(グラフィック処理装置)を備えたスーパーコンピューターという大型の古典的コンピューターに頼ります。しかし、古典的なスーパーコンピューターは特定の種類の問題を解くのには優れている一方で、多数の変数が複雑に絡み合う問題には苦手としています。量子技術はこうした複雑性の壁を越えて、世界中の様々な産業において重要な問題に取り組む力をもたらす可能性があります。
まず、IBM Quantum の量子理論・計算科学ディレクターであるKatie Pizzolatoによる、量子コンピューターが解決できる問題の種類についての動画をご覧ください。
量子コンピューティングの応用として特に有望視されている分野には、以下のものがあります。
- シミュレーション — もともと量子力学的な性質を持つ物理系や化学系のシミュレーション。
- 最適化 — 複雑な問題に対する最適解の探索。通常は最小化問題として定式化されます。
- 複雑な構造を持つデータ — 機械学習やデータサイエンスにおける新しいモデルの探索への量子コンピューティングの活用。
量子コンピューティングのビジネスケース
量子コンピューティングは従来のコンピューターに取って代わるものではありませんが、新たなコンピューティングパラダイムを示しています。IBM® Institute for Business Value の最新レポート The Quantum Decade では、この次世代コンピューティングを牽引する主要な要因が概説されています。ビジネスにおける量子コンピューティングの評価にあたって、以下の側面を考慮してください。
グローバルな優先課題 — 業界全体が不確実性の高まりに直面する中、ビジネスモデルは新しいテクノロジーに対してより敏感かつ依存度が高まっています。
コンピューティングの未来 — 量子コンピューティング、AI、そして古典的コンピューティングをハイブリッドマルチクラウドのワークフローへと統合することで、60年ぶりとなる最も重要なコンピューティング革命が起きるでしょう。
探求主導型の企業 — 企業はデータを分析するだけでなく、問題解決の新たな方法を発見する段階 へと進化していくでしょう。
指数関数的な問題への解決圧力の高まり — 新素材の発見、新興疾患に対する医薬品の開発、サプライチェーンの再構築による強靭化などがその例として挙げられます。
転換期を迎えた量子技術 — ハードウェアと量子ビット(qubit)が急速にスケールアップしている今、ドメインエキスパートがアルゴリズム発見に参加することがかつてなく重要になっています。新しいアルゴリズムの登場により、回路は品質・処理能力・多様性においていっそう向上していくでしょう。
量子エコシステムの拡大 — オープンイノベーションが共同学習を促進します。実務者や科学者は量子コンピューティングを現実の問題に応用できるよう訓練される必要がある一方で、物理学者やエンジニアはドメイン固有の専門知識に基づいたハードウェアおよびソフトウェアを開発できます。
理解度チェック
以下の問いを読み、答えを考えてから、三角形をクリックして解答を確認してください。
正しいか誤りか:量子コンピューターは将来、古典的コンピューターに取って代わるでしょう。
誤りです。量子コンピューターと古典的コンピューターを組み合わせることで、古典的コンピューターだけを使う場合を意味のある形で凌駕できる可能性があります。量子コンピューティング、AI、そして古典的コンピューティングをハイブリッドマルチクラウドのワークフローへ統合することが、最も重要なコンピューティング革命をもたらすでしょう。私たちはこの、量子と古典を接続するビジョンを「量子中心スーパーコンピューティング」と呼んでいます。
東京大学向けに新川崎に設置されたIBM Quantum System Oneのモデルの写真。(クレジット:Satoshi Kawase for IBM)
量子コンピューティングが有望な問題クラス
上記の動画でVictoria Lipinskaが紹介した計算複雑性クラスについて詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。そこでは、BQP(有界誤り量子多項式時間)と呼ばれる、量子コンピューターが効率的に解ける問題の理論的リストについてさらに学ぶことができます。
科学からシステムへの道筋
量子コンピューティングが特別なのは、今日では解決不可能とされる問題を解く能力を持ち、最終的にはビジネス価値をもたらす点にあります。量子コンピューティングがこれらの問題を探求できるのは、現実の最も深い説明として知られる量子力学に基づいているためです。量子コンピューティングは量子力学的な現象を活用して情報を処理します。
量子コンピューティングをライフサイクルの初期段階にある革新的な分野と見なす人もいるかもしれませんが、実際には量子コンピューティングの理論的基盤は少なくとも1970年代から発展し続けています。これまでの主要なマイルストーンや革新的な進歩を振り返ることは重要です。かつてはわずかな歩みで測られていたものが、科学からシステムへと急速に進化を遂げてきたからです。
| 1970年 | Charles H. Bennettは、1970年2月24日にIBMの研究科学者として在籍中に「量子情報理論」というフレーズを初めて書き記した人物と考えられています。この記録は、その後に多くの研究者によって行われた膨大な研究の先触れとなり、世界を量子アドバンテージへの道へと導くことになりました。 |
| 1981年 | 著名な理論物理学者であるRichard Feynmanは、1981年の時点で量子コンピューターの可能性をいち早く見抜いていました。IBMとマサチューセッツ工科大学(MIT)が共同開催した初の「計算物理学会議」において、彼は基調講演の締めくくりに「[...] 自然はクラシカルじゃない、くそっ、だから自然をシミュレートしたけれ ば量子力学的にしなければならない。これは素晴らしい問題だよ、なぜなら簡単には見えないからね」という有名な言葉を残しました。[1] |
| 1994年 | 1994年、当時AT&Tベル研究所(ニュージャージー州)に在籍していた数学者Peter Shorは、完全に機能する量子コンピューターが驚くべきことを成し遂げられると証明しました。それは、一般的なプライベート通信の保護手段であるRSA暗号を解読できるというものでした。彼のアルゴリズムは、通常のコンピューターが宇宙の寿命をかけても解けない計算を数分でこなせることを示しました。2 |
| 1996年 | その翌年、同じくベル研究所の科学者であったLov Groverは、非構造化データベースを高速に検索できる量子アルゴリズムを考案しました。科学者たちがこの分野に次々と参入し、コードの革新に続いてハードウェアの進歩も加速していきました。[2] |
| 1998年 | 量子アルゴリズムの最初の実験的実証は1998年に達成されました。オックスフォード大学のJonathan A. JonesとMichele Moscaが2量子ビットの核磁気共鳴(NMR)量子コンピューターを用いてドイチュ問題を解くことに成功し、その直後にIBMアルマデン研究センターのIsaac L. Chuangと、カリフォルニア大学バークレー校のMark Kubinecがスタンフォード大学・MITの研究者たちと共に同様の成果を上げました。[3] |
| 2001年 | 2001年には、IBMアルマデン研究センターとスタンフォード大学でShorのアルゴリズムが初めて実行されました。7つの活性核スピンを含む同一分子1018個を 用いて、数値「15」の素因数分解に成功しました。[4] |
| 2005年 | 2000年代中頃までに、研究分野ではそれぞれに長所と短所を持つ複数種類の超伝導量子ビットが開発されました。2007年、イェール大学のチームがこれらのアプローチを組み合わせて個々の欠点を克服する方法を見つけ、新しい設計を「トランスモン量子ビット」と名付けました。トランスモン量子ビットはその後、IBM Quantum、Google AI、Rigetti Computingを含む多くの企業の量子コンピューター開発の中核となりました。イェール大学チームの一員であったJay Gambettaは後にIBM ResearchのQuantum Computing担当バイス・プレジデントに就任しました。 |

2015年に発表されたIBMの4量子ビット超伝導量子コンピューターのレイアウト。(クレジット:IBM Research)
| 2016年 | 2016年5月、IBMは実際の量子コンピューターを利用できるクラウド量子コンピューティングサービス「IBM Quantum Experience」を世界で初めて公開しました。[5] |

IBM ResearchのタブレットでIBM Quantum Composerを使用する様子。(クレジット:Connie Zhou for IBM)
| 2017年 | 2017年3月、IBMはオープンソースの量子プログラミングフレームワークであるQiskitをリリースしました。[6] 2017年12月には、量子コンピューティングの商用エコシステムの確立を目的として、IBM Quantum Networkが発足しました。 |
| 2019年 | IBMはニューヨークに量子計算センターを開設し、世界最大の量子コンピューター群をオンラインで稼働させました。 |

ニューヨーク州ポキプシーにあるIBM量子データセンター。(クレジット:James O'Connor, IBM)
| 2020年 | 2020年9月、IBMは当時の小規模でノイズの多い量子コンピューターから、将来の100万量子ビット以上の量子コンピューターへの移行を描いた開発ロードマップを発表しました。このロードマップでは、2023年に1,121量子ビット、2024年に1,386量子ビット以上、2025年には4,000量子ビット超という目標マイルストーンが示されました。 |
| 2021年 | 2021年春、IBMはQiskit Runtimeのリリースを発表しました。これは量子・古典ハイブリッドプログラムのコンテナ化された実行環境であり、ワークロードのパフォーマンスにおける最大のボトルネックの一部を解消しました。[7] 2021年11月、IBMは127量子ビットのEagleプロセッサーにより100量子ビットプロセッサーの壁を突破し、量子 コンピューティングの大きなマイルストーンを達成しました。[9] |
| 2022年 | 2022年4月、IBMはQiskit Runtimeプリミティブを公開し、開発者体験を簡素化するとともに、ユーザーが量子コンピューターからより意味のある結果を得られるようにしました。[10] 2022年5月、IBMはモジュール性と多様な通信技術により計算能力を向上させる量子中心スーパーコンピューティングの時代の到来を見据えた、更新版ロードマップを発表しました。[11] 2022年11月、IBMは超伝導量子ビットを使用したプロセッサーとして当時最大となる433量子ビットのIBM Quantum Ospreyプロセッサーを発表しました。[12] 同月、IBMは動的回路(Dynamic Circuits)も公開しました。これは量子・古典リソースを使って回路途中での測定とフィードフォワード操作を可能にする計算回路です[13]。さらに、エラー抑制・軽減ツールを試せるQiskit Runtimeプリミティブの新しい耐性レベルオプションも発表しました。[14] IBMは2025年にCircuit Knitting Toolboxなどの高度なミドルウェアをリリースし、量子中心スーパーコンピューティングの実現に向けて着実に歩みを進めています。 |
2022年のIBM Quantum Summitで発表されたIBM Quantum Ospreyプロセッサーは、433量子ビットを搭載しています。(クレジット:Connie Zhou for IBM)
| 2023年 | フォールトトレランス以前の量子コンピューティングの有用性の証拠は、IBMとカリフォルニア大学バークレー校との共同研究として2023年6月のNatureの表紙を飾った論文です。IBM Quantumの科学者たちが127量子ビットのIBM Quantum Eagleプロセッサーを用いて複雑な物理シミュレーションを実施しました。同じシミュレーションが、ローレンス・バークレー国立研究所とパデュー大学のスーパーコンピューターにて最先端の古典的近似手法によっても並行して実行されました。Eagleは、力任せの手法が限界を超えた領域においても、古典的な近似手法より正確な結果を示しました。 |

2023年6月14日に掲載された量子ユーティリティに関するNatureの表紙記事
| 2023年 | 2023年、IBMはコードネーム「montecarlo」と呼ばれるHeronチップを発表しました。当初は133量子ビットで、2024年には156量子ビットに拡張されたHeronは、新しい調整可能結合器アーキテクチャを採用しています。HeronはEagleの最良プロセッサーと比較して大幅な改善を見せており、ゲートエラー率は半分、クロストークは ほぼゼロ、ゲート時間も大幅に短縮されています。HeronはOspreyで以前に採用された信号伝達の革新的な技術を継承しています。高速かつ高忠実度の2量子ビットおよび1量子ビット制御を実現するために必要な信号は、高密度フレキシブルケーブルで伝送されます。 |

2023年のIBM Quantum Summitで発表されたIBM Quantum Heronプロセッサーは、Eagleプロセッサーと比較して大幅な改善を示しています。
量子コンピューティングが現在利用されている手法を上回る性能を発揮できる時期を正確に予測することは容易ではありません。しかし、急速に近づきつつある量子コンピューティングの時代をリードし、複雑な問題に取り組むためには、企業や研究機関が今から準備を始める必要があります。学習曲線が急峻なため、学習と実験を早期に開始することが競争優位につながります。量子コンピューティングへの準備は継続的に進化する状態であり、組織のイノベーションへのアプローチと投資、新しい人材とスキルの獲得、そして全体的なデジタル成熟度に依存します。この準備態勢には、自動化・AI・ハイブリッドマルチクラウドなどの先端テクノロジーの採用、拡大するコンピューティング能力を分析・実験・反復する意欲、ワークフローの高度化、そして組織全体のスキルセットが含まれます。
理解度チェック
以下の問いを読み、答えを考えてから、三角形をクリックして解答を確認してください。
正しいか誤りか:量子コンピューティングは1990年代に初めて概念化されました。
誤りです。最初の実験的な量子コンピューターが1998年に作られた一方で、Richard Feynmanが量子コンピューターの可能性を示したのは1981年まで遡ります。
重要なポイント
以下の重要なポイントを心に留めておいてください。
- 量子コンピューティングは、従来のコンピューターと協調して機能できる新しいコンピューティングパラダイムを表しています。
- 量子コンピューティングは、私たちが世界をより深く理解し、これまで解決不可能だった問題のいくつかを解決することを可能にします。
- 量子コンピューティングはまだ現在利用されている手法を上回る性能を発揮できる段階にはありませんが、組織は今日からこの根本的なコンピューティングの変化に向けた準備を進めることができます。
参考文献
[1] Richard P. Feynman, "Simulating Physics with Computers," International Journal of Theoretical Physics 21, nos. 6–7 (1982): 467–488.
[2] Robert Hackett, "Business Bets on a Quantum Leap," Fortune, May 21, 2019.
[3] Isaac L. Chuang, Neil Gershenfeld, and Mark Kubinec, "Experimental Implementation of Fast Quantum Searching," Physical Review Letters 80, no. 15 (1998): 3408–3411.
[4] Lieven M. K. Vandersypen et al., "Experimental Realization of Shor's Quantum Factoring Algorithm Using Nuclear Magnetic Resonance," NATURE 414 (2001): 883–887.
[5] qiskit log, GitHub repository.
[6] Jay Gambetta, "IBM's Roadmap for Scaling Quantum Technology," IBM Research Blog, September 15, 2020.
[7] Ismael Faro and Blake Johnson, "IBM Quantum Delivers 120x Speedup of Quantum Workloads with Qiskit Runtime," IBM Research Blog, May 11, 2021.
[8] Matthew Treinish, Ali Javadi-Abhari, and Stefan Wörner, "New Qiskit Design: Introducing Qiskit Application Modules," IBM Research Blog, April 6, 2021.
[9] Jerry Chow, Oliver Dial, and Jay Gambetta, "IBM Quantum Breaks the 100-Qubit Processor Barrier," IBM Research Blog, November 16, 2021.
[10] Blake Johnson and Gilah Ben-Shach, "Qiskit Runtime Primitives Make Algorithm Development Easier Than Ever," IBM Research Blog, April 12, 2022.
[11] Jay Gambetta, "Expanding the IBM Quantum Roadmap to Anticipate the Future of Quantum-centric Supercomputing," IBM Research Blog, May 10, 2022.
[12] Jay Gambetta, "Quantum-centric Supercomputing: The Next Wave of Computing," IBM Research Blog, November 9, 2022.
[13] Blake Johnson, "Bringing the Full Power of Dynamic Circuits to Qiskit Runtime," IBM Research Blog, November 9, 2022.
[14] Blake Johnson, Tushar Mittal, and Jeannette Garcia, "Introducing New Qiskit Runtime Capabilities — and How Our Clients Are Integrating Them into Their Use Cases," IBM Research Blog, November 9, 2022.